しきたんの自由なブログ

思うことや感じることを、けっこう自由に書いてるブログ。

「お金が大好きで大嫌い。」その感覚の裏にあるもの。

今着々とお金がなくなっている。そのことについて先日触れたんだけど、もう一歩踏み込んでみようと思ってる。

 

 

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この記事で宣言している「お金使っちゃうよ!」を今ひとつひとつやっているんだけど・・・人生初、美容院で約2万円くらい投下してみたり・・・。

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でも、今ひとつ、うーん、やっぱそういうことだけじゃないのか?という疑問が湧いていて。先日実紅に付き合ってもらい、私とお金について一緒に振り返ってみた。

 

 

 

私は、お金が大好きで大嫌い。

お金はまじでめっちゃ欲しいけど、なくなるならなくなってしまえ!というような感覚がどこかにある。表面的には超ウェルカム。早くどこかから振り込まれないかな〜とか思ってるんだけど、心の奥底には「別に無くてもいいし」みたいな気持ちが隠れている気がする。

 

「大好きで大嫌い。」これって、要するに人間関係で使う表現だと思う。心を落ちつけて、お金についてのことを思い返すと、思い浮かぶのは母と父のイメージ。

 

私は母と父が大好きで、大嫌いだ。それは、愛情飢餓の子ども特有の感覚の名残で、やっぱり親に愛されたい。と思っている気持ちと、その期待に答えてくれない(と感じている)から大嫌い。そういう気持ちだ。だいぶ癒えてきているとは思うけど、まだある。

 

あまり認めたくはないものの、やっぱり私には【お金=愛情】という方程式が埋め込まれている気がする。愛憎入り交じった、ダブルバインド(二重拘束)がかかっていて、私はまだお金についてフラットに捉えることができていない。

 

 

 過去をさかのぼってみる。

私が生まれた家は、かつての華族の分家みたいなところで、親戚界隈には未だに上流的な意識がある。一部の方にはごきげんよう、ごめんあそばせ、と挨拶される。親戚に超大企業の社長や役員をされている方がいたりもする。いわゆる財閥の名残なのかなと思う。

 

私の父は、新卒で入った会社がものすごい成長企業で一部上場もし、さらにその中で出世街道を歩み、社長ポジションを経て今は半分引退している。私の母は、元CA(※サイバーエージェントではない)で子ども(私)ができてから専業主婦になった。

 

そんな人たちで、実際お金にはあまり困らない家庭だったと思う。最初CAの母が父よりも稼いでいて、じきに父の年収も上がってきて。高度経済成長期後〜バブル期まっただなかの企業戦士。

 

 うちが比較的お金がある家なんだということは子どもながらに分かっていた。車はクラウン。社長就任の祝電や胡蝶蘭が家に届いたり、お中元やお歳暮が毎年たくさん届いたり、父はしょっちゅうゴルフに行っていたり。たまに家族旅行で連れて行ってもらう会社保有のホテルは、どのホテルも素晴らしいランクのお部屋で、どこでもVIP扱い的にもてなしてくれたので、パパはすごいんだなあと実感していた。もちろんそのことは嬉しかったと思う。うちのパパは世界一かっこいい人なんだ。そう思っていた。将来、父のように活躍したいなと思っていた。

 

母は相当の貧乏性。スーパーでは安くなっているものを買い、服はユニクロメイン。チェーンの(でも、回らない)お寿司を食べに外食しにいくことが結構あって、そのときは「あなたたち(私+妹)は子どものうちからお寿司なんか食べれて贅沢ね〜」とよく言っていた。たぶん、家族旅行とかでも「こんな所来れて、いいわねえ」と言っていたと思う。外食でも、家でも、ご飯は残させない主義。(もったいないから)

 

私のお小遣いは少なかった。小学生で500円。雑誌を1つ買ったらほぼなくなってしまって、自動販売機の下に落ちてるコインを友人と一緒に探していた。当時、お小遣い制度の子と、欲しい物を申告したら買ってもらえる制度の子がいたけど、うちはお小遣いはすくなく、特に何か買ってもらえる制度も無かった。(ここでは詳細は省くけど私は幼いころから親にものをねだることはしない、自然に我慢する子になっていた。)

お年玉ももらえてはいたけど、私が好きに使ってはだめということになっていた。何となく使うのではなく、何かしっかりとした目的のために使わないとならない。じゃあ何になら使っていいの!??その疑問のような反抗心を抱えながらお年玉はずいぶん長い間使っていなかった。私用のスキーウェアか何かを、お年玉で親が買ったような気がする。

 

家には周りのみんなよりもたくさんお金があるはずなのに、なぜ私には自由に使えるお金がこんなにも無いんだろう。

 

 

それは、ありのままの私は愛されていないからだ。

小さかった私には、ずっとずっとその非言語のメッセージが伝わっていた。

 

別に、贅沢させてって頼んだ覚えは一度もない。豪華なホテルに連れていってと言ったこともない。親が勝手に私たちを連れていったのだ。親のいいなりになっているときは、お金をかけてもらえる。

でも私が自由に使えるお金はない。クリスマスと誕生日以外で何か好きなものをひょいと買ってくれたこともあまり記憶に無い。私が空手をやりたいと言ったときも、親の考えで合気道をやることになった。

 

私を認めてくれないから、お金も出してくれないんだ。お金は持っているくせに。私が自由に使えるお金=ありのままの私への愛情 だろうと思うようになっても自然だと思う。

 

 

そもそも、うちにお金なんて無かったら良かったのに。

私はどこかでそう思ってる。うちにお金が無かったら、もっとパパと一緒に過ごせたし、色々な話ができたかもしれないし。うちにお金が無かったら、もっとママは劣等感とか窮屈な気持ちを感じずに自由に過ごせたかもしれない。それこそ、ママも働いて、社会的に認められたりして、もっと自信をもっていたかもしれない。(母は、金銭的に働く必要がなくて専業主婦をしているけど、パワフルで賢く、やろうとすればもっともっと外で活躍できる人なのだ)

お金が無ければ、みんなもっと自由で、愛情に満ちていて、もっと楽しい家庭になってたかもしれない。これは私の想像(妄想)であって、お金のせいではないのかもしれない。でも、心のどこかでつながってしまっているのだ。こういう時、私の中の愛情飢餓感はまだ完全に癒されたりなんてしてないんだな、と思い知らされる。

 

 

お金=愛情 というのは私の中の思い込みであって、真実でもなんでもない。

お金と愛情は比例するものではなく、あくまで幼い私が私の都合で作り出した方程式。実際、お金が無い人が愛情を示せないのかというと、そうではない。

 

愛情が欲しくてほしくてたまらない状態が続いていると、もう愛情なんていらないよという拗ねが出てくる。そう思ってでもいないとやっていられない。お金=愛情 だと思っていると、お金も欲しくてほしくてたまらない気持ちと、もうお金なんていらないよと言う気持ちが共存するようになる。

 

 

私はもっとお金とフラットに付き合いたい。

そのうち、私は両親にお金を借りに(あるいは貰いに)行く必要が出てくるかもしれない。必要性を待たずして、この問題を解消した方がいいのかもしれないが・・・。

 

引き続き、私の中での根深いお金というものについては考え続けていきたい。

 

 

マハロ!

 

 

 

=追記=

その後、こんなことが起こりました〜! 以下参照。

studio-pikake.hatenablog.com

 

 

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