正しさを求めずにはいられない
以前参加したイベントで心に残ったこと。
「私、これでいいんでしょうか」
という、質問をした人がいた。
その人は、意識的にかなりアクティブに刺激的な毎日を過ごしているのだけれども心の中は不安なんだという。これでいいのかどうか、コメントが欲しいということだった。
イベント主催&ゲストや会場内から、
「いいか悪いかじゃなくて、自分が楽しいか楽しくないか。
自分でやりたいことを何でもやりたいようにやればいいんだよ」
的な反応が多かったように思う。
容姿や雰囲気が素敵な人だったこともあり、中には質問者を妬むような反応もあったと思う。
(記憶が薄れてきているので。。事実と違ったらすみません)
イベント中、私の中でいろんな感情がうずまいてまとまらず、
手を挙げて答えることは出来なかった。
帰ってから考えがまとまったので書いておきます。
以下、個人についての話ではなく一般化させた話です。
私、これでいいんでしょうか?と正しさを求めてしまう人と
やりたいようにやればそれでいいんじゃないの?と思う人の間には精神的な格差がめっちゃある。
どちらがいいということじゃないけど、
前者の人より後者の人が精神的には明らかに豊かであり、共通の土台にいる人たちじゃない。
もし貴族階級が庶民階級に向けてアドバイスをするとしたら、
事実としてその差があることを前提に話をしないと
おそらくアドバイスの受け手には、意図がまったく伝わらない。
私自身、無意識にずっと正しさを求めて行動してきていて、
今はちょっとシフトしているつもりではあるけど、その庶民階級なアイデンティティは強い。
やりたいようにやれてたら誰も苦労しないよ!と思っちゃう。
なぜなら、
精神的庶民階級の人には、「(主観的に)やりたいこと」と「(客観的に)よいと言われていること」という二つの
選択肢が無い。一つしか無い。
「(主観的に)やりたいこと」は見えなくて、「(客観的に)よいと言われていること」だけ見えてる。
精神的貴族階級の人には、どっちも見えてる。
だから、「(客観的に)よいと言われていること」じゃなくて「(主観的に)やりたいこと」をやろうぜ、と思える。
精神的庶民階級の人は、「(客観的に)よいと言われていること」が、あたかも自分自身が「(主観的に)やりたいこと」みたいに見えてしまってる。
本人的には、やりたいことやってる!という意識でいる。
という訳で「(客観的に)これで良いのかな・・・」と、常に外からの目が気になる。
いわゆる承認欲求が強い状態になる。
いいね!って言われたいし、言われないと不安。
主観が客観に飲みこまれて消滅していて、自分で自分を肯定する力(機能)が乏しいので
他人に肯定されないと自分で自分を肯定できない。
精神的貴族階級の人から見ると、意味分からん状態に見えたりする。
好きなことやってるんだから、いいじゃん。文句ないはずなのに何が不安(不満)なわけ?
と不思議に思ったりもする。
ちゃんと自分で自分を肯定してそのままつっぱしればいいじゃん、と思ったりもする。
でもそれは、精神的庶民階級の人的には
いわゆる「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない」的な発言に見えてしまう。
お菓子は元々無いんです。代替できるものじゃない。
他人に肯定(承認)を求めているのは、自分で自分を肯定できないから。
アドバイスをするにしても、
その精神的格差があるんだということを前提にすると、内容が変わってくると思う。
もし今私がその質問者にコメントできるとしたら、
「その活動、いったん全部やめちゃいなよ」って良いたい。
的な反応が多かったように思う。
容姿や雰囲気が素敵な人だったこともあり、中には質問者を妬むような反応もあったと思う。
(記憶が薄れてきているので。。事実と違ったらすみません)
イベント中、私の中でいろんな感情がうずまいてまとまらず、
手を挙げて答えることは出来なかった。
帰ってから考えがまとまったので書いておきます。
以下、個人についての話ではなく一般化させた話です。
私、これでいいんでしょうか?と正しさを求めてしまう人と
やりたいようにやればそれでいいんじゃないの?と思う人の間には精神的な格差がめっちゃある。
どちらがいいということじゃないけど、
前者の人より後者の人が精神的には明らかに豊かであり、共通の土台にいる人たちじゃない。
詳細はここでは省くけど、本人の努力のあるなしではなく育った環境によるものがあまりに大きいので
あえてカースト的な言葉で言ってしまえば、庶民階級と貴族階級ってかんじ。
もし貴族階級が庶民階級に向けてアドバイスをするとしたら、
事実としてその差があることを前提に話をしないと
おそらくアドバイスの受け手には、意図がまったく伝わらない。
私自身、無意識にずっと正しさを求めて行動してきていて、
今はちょっとシフトしているつもりではあるけど、その庶民階級なアイデンティティは強い。
やりたいようにやれてたら誰も苦労しないよ!と思っちゃう。
なぜなら、
精神的庶民階級の人には、「(主観的に)やりたいこと」と「(客観的に)よいと言われていること」という二つの
選択肢が無い。一つしか無い。
「(主観的に)やりたいこと」は見えなくて、「(客観的に)よいと言われていること」だけ見えてる。
精神的貴族階級の人には、どっちも見えてる。
だから、「(客観的に)よいと言われていること」じゃなくて「(主観的に)やりたいこと」をやろうぜ、と思える。
精神的庶民階級の人は、「(客観的に)よいと言われていること」が、あたかも自分自身が「(主観的に)やりたいこと」みたいに見えてしまってる。
本人的には、やりたいことやってる!という意識でいる。
という訳で「(客観的に)これで良いのかな・・・」と、常に外からの目が気になる。
いわゆる承認欲求が強い状態になる。
いいね!って言われたいし、言われないと不安。
主観が客観に飲みこまれて消滅していて、自分で自分を肯定する力(機能)が乏しいので
他人に肯定されないと自分で自分を肯定できない。
精神的貴族階級の人から見ると、意味分からん状態に見えたりする。
好きなことやってるんだから、いいじゃん。文句ないはずなのに何が不安(不満)なわけ?
と不思議に思ったりもする。
ちゃんと自分で自分を肯定してそのままつっぱしればいいじゃん、と思ったりもする。
でもそれは、精神的庶民階級の人的には
いわゆる「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない」的な発言に見えてしまう。
お菓子は元々無いんです。代替できるものじゃない。
他人に肯定(承認)を求めているのは、自分で自分を肯定できないから。
アドバイスをするにしても、
その精神的格差があるんだということを前提にすると、内容が変わってくると思う。
もし今私がその質問者にコメントできるとしたら、
「その活動、いったん全部やめちゃいなよ」って良いたい。
(きっと簡単には受け入れられないと思うけど)
自分の主観で何が楽しいのか感じられない状態で、良いと思う何をやっても、刺激と空虚感が交互で続く空回りで辛いんじゃないかと思うから。
自分の主観で何が楽しいのか感じられない状態で、良いと思う何をやっても、刺激と空虚感が交互で続く空回りで辛いんじゃないかと思うから。
まずは他人の承認を求めたくなる行動全てをやめてみて、
自分は何をすると楽しいのか、認識できる状態になった時点でやりたいことをやったら、きっと充足感が出てくるんじゃないかと思う。
何がその精神的格差を生んでいるのかは、また後述。(書きました)
自分は何をすると楽しいのか、認識できる状態になった時点でやりたいことをやったら、きっと充足感が出てくるんじゃないかと思う。
何がその精神的格差を生んでいるのかは、また後述。(書きました)
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