「麻薬中毒と同じで、私たちは人生中毒です」アルボムッレ・スマナサーラ著『結局は自分のことを何も知らない』
正直申し上げて、ここしばらく私は水面下での混乱状態が続いております。
一見落ち着いているんだけどざわざわしている・・・ もしかして私毎日に退屈してる?とか。人生のミッションて何かなあ?とか。もっと思いっきり何もしないでいようかなとか。いやちょっと待て、今企画している11/10の対談イベント相当面白いよ?ここまで作り上げたんだよ、集中しようよ、とか。この対談の司会(モデレーター)やるの、すっごいレベル高いぞー、でもこれがまさに私の仕事なのかな?きっとそうよね?とか・・・
つまり、「キャリアを超えて生きていく」という今回の対談テーマに興味関心がますます高まって参りました。。。(ちなみに今の私は世間的にいうと無職で、変にかっこつけて言うと事業立ち上げ期のスタートアップ創業者です。笑)
さて、ともあれ落ち着こう。。
と、ヴィパッサナー瞑想をしたり、
家にあるスマナサーラ長老の本を読み直したりしています。
1冊分だけですが、ちょっとだけ読んだ気になれるようなまとめを書いてみました。といってもこの記事は予告編みたいなものです。興味惹かれたらぜひぜひ手にとって読んでみてください。この1冊は内容は比較的シンプルで、文章量も多くないのでさらっと読めます。
結局は自分のことを何もしらない
―役立つ初期仏教法話〈6〉 (サンガ新書) 新書 – 2008/1/1 アルボムッレ スマナサーラ (著)
(画像転載:http://gotami.j-theravada.net/dhammacast/)
人類がずっと抱えてきた「どう生きたらよいか」という問題。これに対してお釈迦様は、「ちょっと待ってください。わからなくなっているのは、その前に大きな問題があるからなのではないですか?」と問われます。お釈迦様は、「私はどうするべきかと考える前に、一体全体私とはなにものなのか、考えてみたことはありますか。私とはなにかがわかれば問題は解決するのではないですか」とおっしゃいます。
たしかに。
「私、これからどうしようかな〜」と思うとき、「私」の存在については疑わず「私は私だよ」とつい思っちゃいます。私っていったいなんなのか、そこに目を向けてみると、自ずと、行動(どうするか)はわかってくる・・・。
「私」と思う自分は、その一滴の水のような存在です。たくさんの生命がいる中で、たった一つの生命として生きる「私」を海に例えると、「一滴の海水として、海の中で生活している」状態です。
だからその中で自分(一滴)だけ威張ったり、自分だけ特別な存在だと思うのは理にかなっていない、というお話。自分が正しいと思って人(外界)をコントロールしようとするよりも、謙虚に自分は水1滴のようなものだ、とそのまま捉えた方が楽に生きられるよ、というお話。
自分は水一滴かもしれません。自分は一粒の砂かもしれません。しかし、ちゃんと頭を使って「この生命とはなんだろう。生きるとはどういうことだろう」とものごとを考えて生きるべきでしょう。
まさに。この生命とはなんだろう、まで遡っちゃいますよね。
ここ非常にラディカルで面白い部分ですが思い切ってまとめます。
生き物は動き、死体は動かない。すなわち、生きることは「動く」ことだ、という。そしてなぜ動くのかというと「苦しみを避ける」ため。
息を吸い続けると苦しい、吐き続けても苦しい、同じ姿勢で立ちつづけていても苦しい、同じ姿勢で座り続けるのも苦しい、食べても苦しい、食べなくても苦しい、仕事をしていても苦しい、仕事をしていなくても苦しい。だから動くのだ、と説かれています。また、動くのは「知る」から。痛い、と知るから足をずらしたりします。なので、生きるとは「知る」ことだ、とも言えます。
ということで、こうなります。
生きることは「苦」である。生きることとは、苦を回転させて和らげることです。
さらに、こうなります。
「苦」という原因がないと幸福感はない。(中略)我々が日常、必死で期待する幸福というのは、苦がつくってくれるものです。苦がなければ、俗世間でいう幸福もありません。(中略)幸福感は、「苦」を置き換える時の錯覚。
幸福を探すと、どんどん苦しみが増える。人は「こうすれば幸福になれる」と期待して行動し、それが得られないと、さらに楽をしたくなるものです。しかし、また期待が外れます。(中略)このように、生に対する執着がどんどん強化されていきます。
たとえば、麻薬を用いた人は、麻薬を身体に入れて気分がよいのでしょうか。実際は、気分が良いのではなくて脳が侵されています。脳が侵されて「すばらしい」と勘違いしています。「すばらしいからもう一回、もう一回」と、使ってしまいます。それで人生が全部だめになってしまいます。
「生きることは楽しい」と思うのは、麻薬が気分よいと思うのと同じことです。怖い勘違いです。麻薬中毒と同じで、私たちは人生中毒です。
そんなあ・・ じゃあ、どうすればいいの??
「知る」ことがおかしいから失敗する(中略)私たちが「知る」というのは、「誤解」なのです。
私たちは、自分の都合によって情報を捏造します。(中略)私が見た、私が聞いた、私が感じた、と「私が」「私が」とでてくるこれが、感覚です。そして、この「私」というのが問題なのです。
「私」という認識は捏造されたものだと言います。瞬間瞬間感じるこの感覚は誰のものなのか?『「私」をまとめる「私」はいない』のに、それをあると感じてしまっている、つまり「私」とは妄想概念であり、その「私」基準で認識をしていくので、当然、誤認するのだと説かれています。
その妄想概念である「私」がどのようにものごとを認識をしていくのでしょうか?
人は、なにかを認識したときに「好き」「嫌い」「面白くない」(※)に分けますが、それだけのことなら、あまり問題はありません。しかし、私たちは「好き」「嫌い」「面白くない」と思ってしまうと、それを対象の性にしてしまいます。これが大問題なのです。(中略)なにを見てもつまらなくて、楽しくなくて、張り合いを感じないと「退屈なのは環境のせいだ」と思ってしまいます。このように、どんどん、どんどん貪・瞋・痴という三毒が、増幅して、増幅していきます。「この対象さえ、このようであったら」「これさえ手に入れば」と思って、外の世界を変えようとしたり、なにかを得ることで満足しようとしたりしてしまいます。いつの間にか、貪・瞋・痴という三毒の世界に嵌められてしまいます。
※三毒・・・「好き」=貪(とん)「嫌い」=瞋(じん)「面白くない」=痴(ち)
なので、お釈迦様曰く、こうです。
見るもの、聞くもの、感じるものなどを捏造しないで、自分で解釈・判断しないで、そのまま受け入れてみるのです。そのまま認識してみるのです。 ちょっとの時間、捏造をやめてみます。見えるもの、聞こえるもの、感じるものを、そのまま、見て、聞いて、感じて、じーっとなにも考えないで、判断しないで生きてみます。
さらっと書いてるけど、あ、じゃあそうしよーと思ってできることじゃないっす。笑 この「ありのままを見る」ことを実践できるヴィパッサナー瞑想の詳細はこちらをごらんください。→ヴィパッサナー冥想
さて、ここまできて「どう生きるべきか」に立ち返ります。どう生きるべきか、を考えるためには、なにをテーマに生きるか、が決まってないと「どう」もなにもないので、やっとここで考える軸が定まりました。
「苦しみをなくすこと」を目的としていきましょう。それが真の幸福への道ですよ、と仏教は薦めます。具体的には、妄想を少なくしていき、正知で生きようとすれば、苦しみは少なくなります。また「苦しみをなくすために生きよう」という目的を掲げると、自ずと我々は善い人間になります。
生きることには、本来、目的はありません。生きることは馬鹿馬鹿しくて、苦しみを増やす行為だけです。ですから、あえて目的を作ります。苦しみをなくそうではないか、乗り越えようではないかと、目的をつくります。そう考えると「では、私はどうすればよいか」という柱、テーマがはっきりします。
さて、では具体的にはどのように生きるといいのでしょうか?
非常にざっくりまとめると、「慈しみの心」と「心を清らかにする」ということが重要だということだと私は読み取りました。(この両者は相互関係があると思いますが、その言及は控えます)
慈しみの心については、詳しくはこちらに書いてあります。
もしも人間が、「私だけ生きていればよい。ゴキブリや蟻や蚊などの生きる権利はどうでもよいです」という態度をとったら、それは動物の態度です。いろいろ頭を使って高等に生きることができる人間として、ふさわしくない態度です。
何より動物の態度をとると、自分の生きる権利がなくなってしまいます。なおさら苦しくなります。
お釈迦さまがいちばん推薦する能力というのは、怒りをなくす能力、欲をなくす能力、嫉妬を消す能力、人を憎むことをなくす能力、たとえ敵であっても心を込めて「幸せでいてほしい」と思える能力です。
これらを「心を清らかにする能力」とまとめています。この能力があると、仕事をする能力だとか生きるために必要な能力はすべて自ずと身につくということです。
人は身体で生きているのではなく、心で生きています。人の幸不幸、成功失敗、名誉非難などなどは、肉体がもたらすものではありません。心がすべての創造者なのです。ですから、あれこれと無数のことに欲張って挑戦するよりは、自分の心をきれいにするようにと挑戦することが、手っ取り早いです。確実です。
この辺りは、理解しにくいだろう、と書かれています。
このシンプルな本ではまだ説明が全然足りないということだろうということか、あるいは、この辺りの本当の理解は瞑想などの実践から得られるものだということかもしれません。(私も、わかるわかる〜って思うけど、本当に分かってるかと言われると、自信ないです。)
初期仏教では、お釈迦様(ブッダ)が言ったことも、すべて盲目的に信じるのではなく、自分でひとつひとつ確かめて、調べていく、ということが重要視されています。なので、お釈迦様がこう言っている、スマナサーラ長老がこうだと言った、ということは、参考にこそするものの、意味もわからずありがたく信じ込むのはあまりよろしくないようです。
へー そういう考え方があるんだ!でも、ほんとかなあ? と思ったらぜひ本当にそうかどうか、自分の感じ方を振り返ってみたり、瞑想してみたり、もっと本を読んでみたり、してみましょ〜。
「実践法」として登場する「ヴィパッサナー瞑想」と「慈悲の瞑想」の詳細や実践方法はこちら。仏教ってこんな科学的なものだったんだ!と驚くと思います。(私はそもそも仏教って念仏のイメージしかなかったので、え!?って超びっくりしました)
結局は自分のことを何もしらない―役立つ初期仏教法話〈6〉 (サンガ新書)
自分を変える気づきの瞑想法【第3版】
マハロ!
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