もしも、世界中の全員が好きなことだけやっていたら
自分は今、比較的好きなことだけやってる状態へ移行しつつある。(100%か、と言われたらそうじゃないんだけど。)家にいるのが楽だから割と家にいて、わりと寝たいだけ寝てる。料理したければして、したくなければ買ってくる。パートナーと立ち上げ中の仕事の話を終日好きなだけしていて、逆に話したくないときは話さない。ブログも書きたいときに書く。そのとき書きたいことを書く。会いたい人と会って、話したい人と話す。そのとき話したい話を話す。
何かをやろうとしたときや会話の中で、過去に積み上げた嫌な感情、心の傷、思考の癖、が現実にふとよみがえってきたりすることがあって、そういうのは徐々に癒していけたらいいなと思ってるんだけど、それ以外については、人生ってなんて自由だったんだろうな、と思ったりしている。
先日「美しき緑の星」という映像作品を見たんだけど、こんな印象的なシーンがあった。
市場のような感じで大勢の人が集まって、Aさん:「小麦欲しい人〜?」群衆:「はーい!(多数の人が手を上げる)」Bさん:「大豆欲しい人〜?」群衆:「はーい!(多数の人が手を上げる)」というやり取りをしているシーンを見た。
持っている人が、欲しい人にあげる。何かと交換ではなく、ただであげる。というそれだけのシーンなんだけど、妙に印象的だった。以下はその映像からのインスピレーション。
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( パウル・クレー「灰色の夜から現れ出るとき」)
もしも、世界中の全員が好きなことだけやっていたら、お金というツール(システム)は実は要らないのかもしれない。
お腹がすいたら手ぶらでレストランに行って食べたい食事をもらったり、風邪を引いたら病院に行って薬をもらったり、好きなブランドのブティックで試着して、そのままデートに行っちゃったり。駅には改札機はなく、すべてフリーパス状態。そういう生活ができるのかもしれない。
で、たとえば自分がアクセサリー作りが大好きな人だったら、アクセサリーを欲しい人にあげるし、英会話を広めるのが大好きな人だったら、英会話を習得したい人と会話してあげる。物を売るのが大好きな人だったら、いろんな人の営業をやってあげる。交渉大好きな人は、みんなが抱えてる交渉ごとを代わりにやってあげる。プロモーション大好きだったら、いろんな会社に出入りしてプロモーションを一緒に考えてあげる。
別に、アクセサリーの制作目標数もないし、もちろん売り上げ目標もない。注文が殺到してしまったら、やりたければやればいいし、もう作りたくなければ作らないでいい。(そしたら、アクセサリーが欲しい人はたぶん他のアクセサリー大好き人間の方へ注文することになるだろう)
でも、もし、自分が病気で好きなことができないような状態だったら?
療養に徹する。(医療サービス&すべてのサービスは無償で受けられる)
もし、自分がどう考えても人の役に立たないことしか好きじゃなかったら?
人の役に立たないことでも、自分が好きなことをする。たとえば、ノートに落書きをし続けていても良いし、自分のためだけの料理をし続けてもいい。ラジオ体操が好きなら、毎日ラジオ体操だけしていてもいい。(受けたいと思うすべてのサービスは無償で受けられる)
もし、自分がいわゆる障がい者と呼ばれているような特徴を持つ人だったら?
自分が好きなことをしていればいい。(必要なケア&すべてのサービスは無償で受けられる)
もし、自分に好きなことがなにもなかったら?
とくに何もしなくていい。(受けたいと思うすべてのサービスは無償で受けられる)
でも・・・・
そんなことになったら、コンビニやスーパーの商品はすべて持っていかれてなくなっちゃうし、むしろコンビニの店員は家に帰ってしまって街が機能しなくなるのでは?
誰も人を取り締まらず、警察もいなくなってしまい、無法地帯で危険が増すのでは?
みんながお酒を飲むばかり作る人がいなくなり、お酒がなくなってしまうのでは?
寿司屋ではうにといくらとトロがなくなって、イカとサバだけになってしまうのでは?
病人やお年寄り、障がいのある人たちのケアが放置されてしまうのでは?
電力や水、その他資源を使いすぎてしまい、環境破壊スピードが早まるのでは?
それって本当にそうなんだろうか。
本当にそんなことになっちゃうんだろうか。
そもそも全部フリーだったら焦ってコンビニから食料を奪う必要もないし、好きな寿司のネタは一人ひとり本来違うはずで全員高値がついてるネタばかり食べることもないんじゃない?
何をやって良くても、コンビニの店員をまさにやりたい!という人がいたらそのままコンビニは普通に存続するだろうし、実は誰もコンビニの店員なんてやりたくない!っていう状態なのであればコンビニは別の形態になっていくんじゃないかなあ。もっと機械化されていったり、、うーん、たとえばだけど、小学生くらいの子どもがお店屋さんやりたい!って言うかもしれない。
介護職というものがなくても、病人・お年寄り・障がいのある人のケアがなくなってしまう、なんていうことはないのかもしれない。自分がお金のためにやっている仕事に加えて介護なんてとても無理!という現状が変われば、本当に喜んで介護したいという人も多く出てくるかもしれない。また、家族じゃなくても周りに住んでいるひとが喜んでお世話したい、と言っても別に本来不思議じゃない気がする。寝たきりの人のお世話をしながら話をしていたら、むしろ自分の心が軽くなった、とか、想像に難くない。
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自分は先日、やりたいことがそれほど明確じゃないまま会社を辞めて、とにかく気がむくことだけするようにしようとつとめていたところ、気づくと、あたらしい対話サービスを開発しだしていた。正直会社で働いていたときの貢献度と比べて、かなり大きな貢献ができそうな予感がしている。
やっぱり、人を「何しててもいいよ〜」状態で放置していたら勝手に何かやりだす。得意なことをみんなに広め出す。教え出す。やりがいを感じることをやろうとする。他者と関わろうとする。サービスを作り出す。パンを作ろうとする。医療技術を発展させようとする。
仮に、全員そうじゃないとしても、勝手に何かやりだす人は一定数いる。この「勝手に何かやりだす人」が一定程度いれば、たとえ、何もしない人(と思われている)が結構いても、遊んでばっかり(と思われている)人が結構いても、何も役に立たない人(と思われている)人が結構いても、社会は十分回るのかもしれない。
というか・・・じつは、何もしない人は、「何もしない」ということをしている。遊んでばっかりの人は、遊ぶことをしている。何も役に立たない人は、「何も役に立たない」ということをしている。これらって相当まわりの役に立っている。そういう人がいないと、たぶん回らない。っていうのがあると思う。
今は、働かざるもの食うべからず、という社会だと思う。それをもっとも象徴しているのがお金というシステムだと思う。やりたくないことをある程度我慢してやることで、やりたいこともちょっとできるよ、という状態。その割合は人によってまちまちだけど、「みんなやるべきこととやりたいことをやりましょう!だってやりたいことばっかりやってたら、やるべきことがおろそかになってしまって社会が成り立たないでしょう」というのが定説になっている。
もし「世界中の全員が好きなことだけ」やることになったら、この社会の職業従事者のバランスとか、機械化の割合とか、いま「良いとされていること」とか「悪とされていること」とかの常識がひっくり返っちゃうかもしれないけど、でも、もしかすると回り回って成り立つのかもしれない。無理せず、楽しく、幸せに、という甘ーいことだけ本気で追求していったら、本当に成り立つのかもしれない。というのが最近の予感。
「好きなことだけやる」とはちょっと離れるけど・・・もし軍事費を貧困救済費に全部変えたら、実はそれで全部解決しちゃうんじゃないの?と思ったりもしている。(何をやって良くても、敵はいないのだとしても、心の底から戦いたい人ってあんまりいないのでは?いや、もしそういう人がいるんなら、その人だけはちょっと妥協していただいて周りを犠牲にするからゲームとかスポーツに本気で取り組んでいただけると嬉しい・・・)
もしそうなんだとしたら、今仕方なく(と思われて)犠牲になっているもの、ひと、気持ち、時間、とかってなんなんだろうね。
ぜんぶひっくり返してみたい。
マハロ!
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