怒りは光
イケダハヤト氏のこちらの記事を読んだインスピレーションで書きます。
熱心な怒り、憎しみの声が届くたび即座に思うのは、そのエネルギーを、ぜひあなたの表現に昇華してほしかった、ということです。
わざわざ他人に何かを言いたくなる、というのはすごいことなんです。
それは、芸術的活動を始める上での、根本的なモチベーションです。単に憎悪のメッセージをぼくだけにぶつけるだけでは、本当にもったいない。
(中略)
怒りや憎しみをモチベーションにすると、自然といい作品ができます。自分なりの価値観が、裸の状態で出てきます。それはおべんちゃらのない、グロテスクで熱量のあるメッセージになります。「私のなかには、こんな私がいたんだ」と驚くと思います。
私たちは普段中身の見えない「もやもやした暗闇」のような存在であり、怒りはそのもやもやとした暗闇の中を一瞬ぱっと明るく照らしてくれる貴重な存在だ。
瞑想とか催眠(ヒプノセラピー)療法などの精神的に特殊な環境下にいない限り、私たちは「意識的」に暮らしている。
意識的に暮らしている時、自分の外の世界は明るく見えるけど、自分の内側は暗くて見えていない。
朝ご飯を食べて、間に合う時間の電車に乗って、挨拶をして・・・。自分が「良い」と思える行動をしている。遅刻するのは良くないから間に合う電車に乗る。挨拶をするのが良いと思うから挨拶をする。当たり前のことですね。
自分が良いと思うことしか基本的にはしない。良くないと思っていることをやってしまうと、良くなかったな・・・と反省をするので、自分の中でつじつまは合う。忘れ物で遅刻してしまったら、いや〜な気持ちになる。もう忘れ物しないように鞄にいつも入れておこう!と思うことで、いつのまにかいや〜な気持ちは忘れる。
そんな人が「頻繁に遅刻して、しかも悪びれない」人に出会うと、ちょっといらっとする。これは怒りだ。心の中で光が点灯する。もやもやとした暗闇の内側がぱっと明るく照らされる瞬間。「一言くらい謝れば?」と思う。その後の行動としては、実際に「ちょっとは気をつけてくださいよ」と小言を言うか、心の中で「こいつに何を言ってもどうせ通じない。こういう人なんだ」と自分を納得させるかして、そのいらっと感は忘れる。心の中はまた暗闇に戻る。
いらっと感を感じたときに、相手にぶつけたり、自分を説得したりして忘れようとするのは、自分が落ち着きたいからだ。暗闇にいるほうが心地いいから、光を感じると消そうとする。暗闇とは自分が「良い」と感じる範囲内の暖かい場所。この中にいると、安心する。
しかし、ずっと暗闇にいると、自分がどんな姿をしているのかすら全く分からないままなのである。
光に照らされたその一瞬だけ、自分の輪郭が浮かび上がる。この一瞬こそ、唯一と言っても良いかもしれない、自分の姿を知る手がかりだ。
「頻繁に遅刻をして、しかも悪びれない」人を見ていらっとするのは、自分が「良い」と思うことに反するポイントがあるからだ。「遅刻という規則違反は良くない」「違反しているときに謝らないのは良くない」「間違いを繰り返すのは良くない」などになるだろうか。実は、こういう人を見てもまったくいらっとしない人もいる。「遅刻=良い」「謝らない=良い」「間違いの繰り返し=良い」と思っている人はいらっとしない。怒りは、相手の行動それ自体ではなく、自分の中の規範から外れているという認識からわき上がる。
つまりこの場合(いらっと感じる場合)、自分に「遅刻という規則違反は良くない」という輪郭(固定概念)があるということが初めて分かる。
とすると、イケダハヤトさんの言う通り、怒りを感じたその相手にぶつけるのはあまりにもったいない。怒りは相手のものではなく、自分のものなのだ。自分の財産だ。相手に何かぶつけるのはお門違いというよりも、財産の無駄遣いでしかない。
「怒りは想像力」の引用部分について、私の解釈では、怒りという光を手に持ち、上に掲げて自分を照らし出すと、自分がどんな固定概念をもっており、何を感じていて、何をしたいのか、その姿が初めてありありと(グロテスクなまでに)見えてくるのだ、ということを表現されている文章ではないか思っている。
怒りを創作活動に昇華するということのプロセスは、怒りという光で自分を照らして見えるグロテスクな自分自身(表現の源)が創作活動の原動力になるよということなのではないかと思っている。
怒りを感じたら、まず「怒りを感じている」と認識して立ち止まること。
ちょっとしたマイナスの違和感も、イライラ感も、嫉妬心も、反抗心も、敵対感情も、恨みも、憎悪も、すべて「私が良いと思うことから外れた異物的な何かがそこにある」ということ。その異物は自分とっての貴重なヒントだ。
「何に怒ってる?」と自分に聞いてみる。
その答えが、自分の輪郭(固定概念)の正体だ。その正体をしっかり観察しながら、固定概念の下にあるものをじっくり観察する。すると、今まで無視してきた何かが、形をともなってそこに現れてくれる。自分はここまで。と線を引いてきた輪郭がそれだ。
「遅刻はいけないときまっているのに、あいつは遅刻した!私は遅刻するのは許されないのにあいつは遅刻している。特別扱いされるのは許されない!許せない!私は今までずっと遅刻しないように頑張ってきた。それを認めないなんて許せない。なぜ私のことは認めてくれないのにあいつは・・・」
自分のことを認めてほしいという切実な気持ちがあるのだ。いつも暗闇の中でもやもやしているのは、この気持ち。これが正体だ。できればこんなに醜い中身は見たくない。
この醜い中身は、自分の輪郭を緩めれば、昇華することができる。怒りをしっかり見つめて、輪郭さえ分かれば、緩めることができる。「遅刻はいけない」を「遅刻はしても、しなくても、どっちでも良い」に変えてみる。「あいつが遅刻してもしなくても、自分が遅刻してもしなくても、どっちでもいいんだ。」そう思ってみる。
緩めるということも簡単ではないけど、緩めれば緩めるほど、もやもやした暗闇の中で人知れずじたばた暴れて苦しんでいる自分の醜い心は昇華されていくのだ。昇華プロセスは苦しいけれども、この醜い心の存在が、私を苦しめてきた。
怒りの創造力の正体は、その醜い心が昇華される寸前の断末魔なのかもしれない。
マハロ!
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しきたん / 原口色(Shiki Haraguchi)
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