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しきたんの自由なブログ

思うことや感じることを、けっこう自由に書いてるブログ。

マインドフルネスリトリートで感じた違和感。5日間のうち2日で早退してしまった話。

GWの2日~6日まで、マインドフルネスリトリート@富士山麓の予定を入れていたのだが、急きょ2日夜に早退することになった。パートナーと二人で行っていたのだが、二人ともこのリトリートに肌が合わず、という理由だった。

 

そうなってしまった原因は、私がティク・ナット・ハン師についていくつかwebで読んだりこのリトリートのページを読んだ程度の知識しか持たなかったにも関わらず、勝手に初期仏教(テーラワーダ仏教)的な期待をもって参加してしまったこと。(※)ティク・ナット・ハン師の教えは、大乗仏教テーラワーダ仏教のハイブリッドのようなものだったことを、早退後に知ったのでした・・・。

 

※語弊を恐れずに言ってしまうと、今私が感じている大乗仏教と初期仏教は、

大乗仏教は衆生を救うためのもの。

・初期仏教は悟りをひらく(悟りに近づく)ためのもの。

という感じ。

 

結論、ティク・ナット・ハン師や師のコミュニティであるプラムヴィレッジのマインドフルネスは素晴らしい。(師はノーベル平和賞の候補者にもなっているのだ)けれど、救われたいというよりも、悟りに少しでも近づきたい私には合わなかった。

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全体的に集団行動でやる意味を感じられなかった

今回は30名以上のブラザー(僧)&シスター (尼僧)と、運営スタッフと、500名くらいの参加者という大人数でのリトリートだった。

やっていることはほとんどすべて一人でも実践できる。なのになぜみんなでやらねばならないのだろう?「良いお友達と過ごすと、実践も進みます」と言われたが、私たちにはむしろ「良いお友達」とのコミュニケーションが邪魔だった。

 

夜~朝にかけて行うノーブルサイレンス(聖なる沈黙)は、「話すのはNG、アイコンタクトをして微笑みましょう。どうしてもの時は小さい声で話してOK」そのルールだと、コミュニケーションはありということになるので、あまり普段と変わらないし・・・一人でやった方がよいのでは?と思ったりしてしまう。

 

歩くときは基本的に歩く瞑想なのでしゃべっちゃだめ、話したいときは止まってから話そう。ということになっているので、私はそれを真剣にやってみたかったのだが(実際パートナーと歩いているときは真剣に実践していた)、結構みんなよく話す。スタッフも、ブラザーまでも話しながら歩いていたりする。ルームメイトが歩いている私に話しかけてくる。というダブルバインド状態。

 

普通に合宿して普通にコミュニケーションするならばそれはそれで楽しいし、むしろ普通に仲良くなりたい。あるいは、完全にノーコミュニケーションなのだったら大部屋でもまだ過ごしやすいんだけど・・・

 

 

 

食べる瞑想は一人で、妄想せずにやってみたい

まず鐘の音で3回マインドフルに呼吸をして、おしゃべり一切なしでマインドフルに食べる時間。15分に1回鐘の音が鳴る。そのときは一切の動作をストップして呼吸に意識を戻す。ちなみにここでは食事は菜食だ。

 

このやり方で食べると、食事がかなりいつも以上においしく感じられる。しっかりと味わえて、いま・ここにいる充実感が感じられる。ぜひまたやってみたいし人にもお勧めしたい。肉系なしでもとってもおいしかった。でも、やるなら一人や気の置けない人とやりたい。

 

というのも、これも話すのはNGだけれども、水をついだり醤油をパスしたりというコミュニケーションはありで、アイコンタクトと微笑みでコミュニケーションしましょう、というものなのだ。どうしてもの時は小さい声で話そう、というもの。特にほぼ全員初対面同士で気を遣い合っていて、隣の人が話しかけてきたりして気が散る。私は食事に集中すると決めたら、ノーコミュニケーションで取り組みたい。

 

加えて、あと2点違和感があった。

 

食べているときはその食物がどこからやってきたのかとか、関わってくれた人間・動物・すべてのものを想像して感謝しましょう、という。 たしかにそういう想像をしたり、感謝することって楽しいし幸せな気分になる。けれどもこの人参がどの畑で採れたのか、どんな経緯でここまで来たのか知らないし、知りようがない。超能力的な観察眼がなければ・・・。きっとこの人参はこのセンターの料理人が切ってくれて・・・って本当!?あらかじめ切ってある人参を買ったのかもよ? この人参が育つのには土の中のバクテリアも関連していて、本当バクテリアにも感謝だなあ・・・と思ったけどそれって本当なの?土の中にバクテリアがいるって理科で教えてもらったけどその事実を目撃したことは私はない。本当かどうか、厳密にはわからない。

だから、そういった詳細を思い浮かべるのは感謝の気持ちにはなりこそすれ、真理を見るためには役に立たない、むしろ障害になる妄想と言えるのではと思ってしまった。

 

あとは、ここで500人が5日間菜食になることで、多くの動物が殺されずに済む、という話。この500人が肉不買運動をたった5日したからといって食肉として育てられる動物たちの数にに何か影響が与えられるだろうか?そう考えると、ビジョンと事業内容がずれてしまっているときのような違和感を感じてしまった。

 

私は、野菜でも肉でもすべてに感謝しながらかみしめればいいのでは、と思う。私も動物の肉を食べるときにその生命が奪われたことを思うと罪悪感を感じることもある。でも、辛いとか悲しいではなく罪悪感という表現になっている時点で、その感覚は欺瞞だ。「罪悪かどうかという自分が決めたルールに反した」ことを嫌だと思っているだけで、その動物のためじゃない。私の本心では、人間は雑食な生き物で、肉を食べて当然であると思っている。

 

 

歩く瞑想も、妄想せずに観察していきたい

歩く瞑想は、呼吸に合わせて自分にとって適度なペースで歩く。吸いながら3歩、はきながら3歩~4歩。歩みながら「母なる大地よ」や「私は着いた(私の家に)」と念じる。もちろんおしゃべりはなし。500人みんなで列をなして散歩道を40分くらい歩いた。

 

イメージトレーニングとしては「目指すもの」をイメージするのは基本だ。だからこれもイメージトレーニングとして良いのかもしれない。そう思って歩いてみた。マインドフル実践からの気づきの瞬間と思われるものもあった。(後述)

 

でも、私は疑いをもって見てしまった。イメトレのような瞑想ってどうなのだろう?妄想の中で気持ちよくなってるだけではなくて? 

 

私はいわゆるスピリチュアル業界で言われている、また科学的にも証明されだしている「この現実にいろいろとあるものはすべて幻であり、本当はすべての存在の区別は無く一つなのだ」というような考え方について、きっとそうなんだろうな、と思っている。スピ的に有名どころのこの本でも書かれている。

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なので「母なる大地(mother earth)」に疑問を感じてしまった。この、物質的な「地球」が母だっていうことなんだろうか?この地球への信仰ってなんなのだろう?土着の民族宗教のように感じてしまった。

「私は着いた(私の家に)」ということは、”私”と”家”の分離を認めるということになる。そもそも1つであるイメトレとしては「私は家にいる」のほうが私にとってはしっくりくる。

また、「みんなで歩く」という団体行動には私は意味を感じられなかった。みんなで歩く一体感、ピースフルな体験を低く見るつもりはないけど、私が求めているものじゃなかった。

 

 

 

座る瞑想は、一番よかった

早朝の座る瞑想は、呼吸に集中しながら座り、たまに鐘の音が鳴らされたり、「吸って、はいて」のアナウンスが入る。鐘の音は、意識を呼吸に戻すためのもの。意識が散漫になりそうな時に鐘が鳴ると助かる。おそらく30分くらいだったと思う。この瞑想はシンプルで、やりやすかった。なるべく思考をストップするということに専念できた。(前の晩、大部屋だったのでいびきでなかなか寝られなかったり、朝早かったりでいつもより睡眠不足で、コンディションがベストじゃなくちょっと残念…。)

 

 

くつろぎの瞑想は、どこまでも癒しの空間だった

くつろぎの瞑想は、500名全員がホールに横になり、尼僧がマイクでお話くださる言葉や子守歌のような歌に包まれる1時間。昼食後だし、うっかり寝てしまい自分のいびきで目を覚ました、という人は私を含めてたくさんいたようだったけど、そもそもこの瞑想は「寝る」ことが完璧なやり方なのだということを後でブラザーが仰っていた。

 

15分~20分くらいだったか、寝ているときは確かに気持ちよかったけど、まるで幼稚園のお昼寝の時間のように寝かしつけられることって真理探究のために何の役にたつんだろう?と思ってしまった。むしろ寝ているときにいろいろと歌われているので、何か暗示が入ってしまったりすると怖いな、と思ったり。

 

 

 

ダルマシェアリングもちょっと想像と違った・・・

ブラザーやシスターを含む20名程度で輪になって、簡単にみんな自己紹介した後、プラクティス(様々な瞑想等の実践)について、シェアしたいことをシェアする時間。

ノンジャッジメンタルに聞く時間なので、そのように耳を傾けて聴いていたけど、後々から違和感が出てきた。 

 

愛情不足からの悲しみの話、やっぱり都会より自然に触れると癒されるという話、日々のプラクティスがうまくできていないけどまあ仕方が無いですねという話、など…

 

 私はもっとストイックなシェアを聞きたかったようだ。「これをやってみたら、気づきを感じた!」とか「このプラクティスを励んでみたがどうしてもできない、こう感じてしまうのです」など。向上的なプラクティスの話をシェアしてくださった方もいたけど、それはレアだった。このシェアの場は暖かく、まったく悪いものじゃないのだが、私が変な期待を持ってしまっていたせいで、期待はずれだった。

 

 

マインドフルネスな気づき(なのかもしれない)

最後に、上記のダルマシェアリングでもシェアした、私の感じた気づきについて。

 

歩く瞑想でのこと。呼吸を意識しながらひたすら歩いていたそのとき、視界の右側で桜の花びらが1枚舞い落ちた。(富士山そばではまだ桜が少し咲いていた)ひらひらと、らせん状の細かい弧を描きながら。今まで感じたことがなかったように、その出来事を見た。落ちるべくして落ちた、というか、その花びらは今落ちたのだということがはっきりわかった。同時に左側に見えていた富士山が存在していることもはっきり感じた。当然であるというような感じ。当然、落ちる。当然落ちたのだ。富士山も当然あるのだ。ひるがえって、私も当然いるのだ。

 

うまく説明できない。これ以上言葉を加えることができない。見ることと気づくことは同じことだよ、とブラザーが言っていたけど、本当にそんな感じだな、と思った。この体験はもっと追求したい。

 

ただ、上記に書いたように「母なる大地よ」や「私は着いた」のイメージワークよりテーラワーダヴィパッサナー瞑想の方が合いそうなので、そちらのやり方で続けていきたい。テーラワーダにも歩く瞑想はあって、そちらは何も念じることはなく、思考をストップして右足・左足と動きを実況中継しながら歩き続けるというやり方。

 

 

ちなみに、日本テーラワーダ仏教協会でこんな研修が予定されていることを昨日知ったのでご紹介しておきます。ああもっと前に知っていれば・・・今年は行けないんですが興味ある方いたら、是非。5/15まで応募受け付けているようです。

kokucheese.com

 

 

 

 マハロ!

 

 

※追記

ダルマシェアリングでのシェア内容は一切口外禁止であるはず、とのご指摘をいただき内容の一部を編集しました。 

 

 

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しきたん / 原口色(Shiki Haraguchi)

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